母の思い出
母が亡くなってほぼ1ヶ月が経った。私の中ではやっと母の死を受け入れられるようになった。この頃、母との思い出がよみがえる。
母は昔から負けず嫌いで何にでもがんばり屋。女学校を出て女子師範学校に行き、小学校の教師になった。私が小学生の頃、母は生徒に出した宿題のノートを家に持ち帰り、夜遅くまで点検をしていた光景が思い出される。印刷をする資料や手紙をガリ版の上でガリガリと音をさせて書いていたのも思い起こされる。
私は3人兄弟の末っ子。一番上の姉とは11歳、兄とは9歳も離れている。実は私と兄との間には別に姉と兄が在った。しかし、姉は事故で、兄は病気で年少の頃に亡くなったそうだ。今思うと両親にとってそれは相当辛い思いだったことだろうと思う。そのため、もうひとり子供が欲しいと私を産んだという。そして、この子だけは丈夫に育って欲しいという願いから健康の康を取って「康子」と言う名を付けたそうだ。
年の離れた終いっ子のせいか、母は私をかわいがってくれた。母はどこへ行くにも私を連れて行った。昔の小学校は日直制度があり、休みの日には当番制で教職員は学校に出た。赴任先の小学校へ良く連れて行って、私は誰もいない教室や廊下、校庭で遊んだものだ。夏休み中の研修先にも連れられ、やはりその学校の校庭で遊んでいたこともある。
バスで通っていた通勤もバイクの免許を取り、50代になってからは自動車免許も取った。その際、私にも取るように促された。私は全然その気は無かったが、母の意気込みに押され一緒に教習所に通ったものだ。結局、私の方が先に卒業したのだが・・・。父も免許を持っていなかったが、やはり、母の勧めで60代で取る事になる。母は車の運転を85歳近くまでしていた。周りが心配して、何とか止めさせ車も廃棄した。その後、亡くなる直前まで「車の運転が出来なくて不便。悔しい。」と言うことは何度も言っていたものだ。
父も教師をしていて、趣味で書道をしていた。退職後、書道塾を開くがその助手に母が借り出された。母は退職後やりたかった洋裁を習いながら、父の助手として役に立つよう書道を習い始めた。努力家の母は、毎晩夜なべして練習を続けアッという間に準師範まで登りつめ、塾長が驚いたそうだ。しかし、もともとそれほど体が丈夫でない母は根をつめる日々が続き体調を崩してしまった。結局、通っていた書道塾を止めることとなる。父の書道塾を手伝う助手としてはそのキャリアを活かし、充分父を助けたと思う。
勝ち気な面ばかりを強調してしまったが、優しい面もあった。花が好きで、庭には花が絶えなかった。私が小学校の頃は庭に咲いた花を切って学校へ持たされたものだ。私自身は花にそれほどの執着があったわけではない。通信簿に「花好きで・・・、教室に花を良く飾ってくれた」などと書かれてあり、そんなわけではないのに!って思ったことがある。また、大の動物好きで我が家では大体犬や猫を飼っていた。また、知らない家の犬や猫でも通りがかるとすぐ触りに行く。私が動物好きなのは母に似たのだと思う。こんなエピソードを思い出す。赴任先の学校で飼われていたサルが檻から逃げ出した。校庭にあるバックネットにつかまっているところを発見された。日頃からサルと仲良しだった母が呼ぶとそばに寄ってきて捕まえられたことがあった。
今思い返せば、手前みそながら偉大な母だったと思う。そんな母に私はずいぶんと反抗し、迷惑ばかりをかける不出来な娘でした。そして、母のがんばりの足元にも及ばない情けない娘でした。せめて母の偉大さに少しでも近づけるよう、気付いたこの瞬間からでも努力して行こうとあらためて反省しています。逃げずに何事にも取り組もう・・そう思っています。
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コメント
▽塾長へ
塾長の奥様のお母さんならまだまだお若かったでしょうね。交通事故でお亡くなりになったなら、さぞかし悔しい思いだったことでしょう!
私の場合は母が高齢だったこともあり近々こういうこともあるだろうと言う覚悟はある程度ありましたから割とすぐ立ち直れた気がします。
プラス思考で考えると逆に母は常にそばで見ていてくれているという気持ちが強いですね。不思議!
▽cyaguままさんへ
ようこそいらっしゃいました。
>バスの窓から・・・、道の曲がり角で・・・、いつでも不意に面影が表れては、ふと涙ぐむこともあります
本当にそうですね、確かに今もそんなことが良くあります(;;)
cyaguままさんのお母様も私の母と同年代ですね!どうぞ、今のうちに親孝行を充分してあげてください。
私もそちらへうかがわせて頂きますね!
▽ミッチさんへ
ミッチさん、いつも心温かいコメントをありがとうございます。仕事をしながらの家事や子育ては完璧とは言えなかったと思いますが、それでも私は母が大好きでした。母との思い出は大事にしていきます。
心が落ち着いた今は生前の頃よりも母が身近にいる、そばで常に見守ってくれている気がして不思議とそれほど寂しさを感じなくなっています。
神様に頼む願い事をいつの間にか亡くなった母に願うようになっているのも不思議な感覚です。私の中で神様=母になっているようです(笑)
投稿: タム | 2007/02/12 23:03
コメント遅くなってごめんなさい。今、母の思い出を読ませて頂き、とても感動しました。文章力もあるので、お母様の偉大さがとてもよく伝わってきました。実の娘からかくも称えられて・・・良き供養になっているんじゃないでしょうか。これほど立派なお母様ですから、きっとタムさんの心に永久に残ることでしょう。娘からこんな風に評価されるなんてお母様も幸せですね。
先見の明もあって、タムさんが免許を取られた経緯も羨ましいです。一時期教師をしたことのある私は、日直やガリ版など当時が思い出されました。もっとも私は独身でしたけど。でも子供を連れて遊ばせていた教師はいませんでしたね。それだけお母様は幼いタムさんをいとしんでおられたのでしょう。親を教師に持った方達からいろいろ聞いておりますが、タムさんのなかにお母様の良い思い出ばかり残っているのですから、子育ても上手だったんですね。教師と家庭を両立させるのはとってもむずかしいですから。才能もあられたんでしょうが、書道への頑張りも凄いですね。それはタムさんにも受け継がれたのでしょう。女性として人間として尊敬できるお母様との思い出をどうぞ大切にしてね。
投稿: ミッチ | 2007/02/11 12:37
はじめまして!
浜辺の月さんのところからやってきました。
最愛のお母様を亡くされたとのこと。悲しみはなかなか癒えるものではないでしょうね。バスの窓から・・・、道の曲がり角で・・・、いつでも不意に面影が表れては、ふと涙ぐむこともあります。
境遇があまりにも似ているので、胸が締め付けられました。私のほうは3姉妹ですが。父は3年前に90歳で亡くなりましたが、母は88歳で元気に一人暮らしをしています。
今のうちに親孝行をしておかないといけませんね・・・。
投稿: chaguまま | 2007/02/10 20:57
一ヶ月ですか。
ウチの総裁の母親(官房長官)が交通事故で急逝してから
丸3年が経過しました。
亡くなり方はそれぞれですがね、
除々に悲しみから思い出に代わりますから。
投稿: ガ・ちんこ投稿塾々長。 | 2007/02/09 00:04
▽やまちゃんへ
毎度コメント入れてくださりありがとうございます。母のことはまだ毎日の生活の中で思い出されます。でも精神的には落ち着いてます。
「母は偉大な人だった!」と言う気持ちは常に持ち続けていこうと心に誓いました。
▽浜辺の月さんへ
私も月さんのおっしゃるとおりだと思います。最近、お願いや悩み事などを心で思うとき天国の母にお願いしてることが多々あります。いつの間にか「母」が「神様」と入れ変わった存在になっているな?なんて客観しするとちょっとおかしかったですf(^^;) でも、まだ当分母が神様代わりになりそうです。
▽たま吉さんへ
たまさん、あたたかいお言葉ありがとう!
亡くなってからまだ1ヶ月あまりだから母を思い出す気持ちはありますが、何ヶ月何年経っても常に母のことを思う気持ちは忘れないようにしようと思っています。そして、いつも母が天国から見守ってくれていると言うのを感じて日々安定して過ごせる気もしています!
投稿: タム | 2007/02/08 15:56
タムさん、お母様のお話をありがとうございます。
こうして思い出し話をすることはなによりのご供養ですね。
私もいまだに母のことを想い、
そうして母が亡くなった年齢になるほどにいっそう母を思い出しております。
タムさんの真摯な気持ち、お母様に届いてますよ!
投稿: たま吉 | 2007/02/08 10:41
こんにちは、タムさん。
とてもいいお母さんだったのですね。
とても尊敬出来るお母さんだったのですね。
そして、とても頑張り屋で、優しいお母さん。
タムさんが、お母さんを尊敬して、思い出している間はきっと、タムさんのお母さんはタムさんの心の中に生きて行きますよ。
タムさんの心の中にいるお母さんを尊敬して、供養されれば、タムさんのお母さんもきっと見守って下さるでしょう。
タムさん、また来ますね。
投稿: 浜辺の月 | 2007/02/06 12:31
すこしは落ち着かれたようで現実を受け止められた様子ですね。
お母さんの事を思い出し「尊敬する心」が供養にもなるでしょう。
少しずつ前向きな「タム」さんに戻られましたよ。
また、伺います。
投稿: やまちゃん | 2007/02/05 22:46